2013年6月4日火曜日

「舞台白粉」物語 カネボウの軌跡(前編)

少し前、私のブログで昨年お目にかかった市川團十郎さんとの思い出を掲載したところ、最近、多くの方から「舞台白粉」のことを質問される。
歌舞伎ファンと市川一門を贔屓にされている方々には「舞台白粉」も気になるようだ。

京都での出会いは、友人の佐藤さんが取り持ってくださったご縁の席上で、私どもが團十郎事務所に「舞台白粉」をご提供させていただいている不思議を披露させていただいた。

舞台白粉は、「どのような商品で、どうやって使うのか?」「歴史は?」「どこで、いくらで売っているの?」など、お知りになりたいようである。
実は私も、京都でのスピーチのために「鐘紡100年史」を読み、当時のことを知る先輩諸氏から教えていただいて分かったことがたくさんあった。
折角なので、その時に「舞台白粉」で分かったことを、紹介したい。

「舞台白粉」の歴史

カネボウ化粧品は、120年前の「鐘紡(鐘ヶ淵紡績)」から始まっている。その名前から分かるように、もともとは繊維の会社である。1954年、化粧品を生産するケービーケー(KBK)商会という会社を設立し、本格的にカネボウ化粧品として動き始めた。
当時は、映画・舞台が全盛であり、カネボウは品質第一主義をモットーに歌舞伎・映画を始めとする各層の著名人の協力と援助を得て、ステージカラーという商品を作り上げていく。
このノウハウが他社に負けない特色となり、今日のカネボウ化粧品へと続くのである。

この年に、歌舞伎6代目菊五郎の要望で「舞台白粉」を完成している。
9代目市川團十郎は、菊五郎に芸を仕込み、東京歌舞伎座での6代目菊五郎襲名の「後援」もしており、その関係は深かったようだ。

その後、11代團十郎から「さらに品質の良い舞台白粉を」という要望に応え改良品の共同研究者として、製品化に尽力いただいた。この完成が1960(昭和35)年のことである。当時、80グラムで300円という価格であった。
現在の「舞台白粉」は130グラム、2000円(税抜)で、舞台化粧専門のお店で売られている。
個人使用でない團十郎事務所には、業務用の1キロサイズでお届けしていて、これは一般の方の商品と違い、歌舞伎座の緞帳模様も何もないシンプルなものである。



安心の舞台白粉を目指して

その昔、「白粉」おしろいには鉛が使用されていた。鉛中毒で胃腸病、脳病、神経麻痺などを引き起こす事例が多く、日常的に使用頻度が高い舞台俳優はその病症が顕著であった。
肌にも表れる「ドウランやけ」の状態は役者にとって大きなダメージであった。
1934(昭和9)年に、鉛を使用した白粉(鉛白粉)製造は禁止されたが、鉛白粉のほうが「美しく見える」と、まだかなりの需要があったとのことである。

團十郎とカネボウは、この悩みを「解決したい」と考え、「肌に安心な商品」だけでなく鉛白粉より美しく見える舞台白粉を目指した。また「練り白粉」は温度差に左右されないものでなければならない、という大きな課題も抱えていた。
舞台の特殊な照明、激しい動きにも崩れない。だからといって、固まったり、のびが悪かったりしては駄目。舞台照明に映えることはもちろん、歌舞伎の「隈取」(くまどり)のコントラストの重要な下地の「白色」の頂点を極めること。
動きの速い「荒事」をお家芸にするだけに、團十郎の求めるものは限りなく完成度の高いものであった。
「鐘紡100年史」に、「製品化に至る過程では、團十郎の厳しい要請と、度重なる試作品のやり取りがあり、製品化には苦労と困難があった」と、記されている。

激しい気性であった11代團十郎と、当時のケービーケー(KBK)商会の研究陣との激しいやり取りを経て、團十郎の執念が「カネボウステージカラー・舞台白粉」を世に送り出したのである。
あれから53年経って、今なお市川一門の舞台白粉として、愛用されているのである。

照明や太陽の下でも「肌の色」が映える、汗や皮脂にも崩れない、温度差に強い、そして何より安心・安全である、この課題に團十郎とともに取り組んだ当時のカネボウの技術が、その後のファンデーションづくりに生かされていることは、言うまでもない。

私は、化粧品づくりに身を置く一人として、團十郎とカネボウが総力を結集して、「舞台白粉」を完成させ、これが日本の伝統文化を継承することに、微力ながら貢献できることを「誇り」に思う。
(敬称を略させていただきました)  


田辺志保