2013年6月28日金曜日

「舞台白粉」物語 カネボウの軌跡(後編)

第11代團十郎さん(以下、敬称略させていただきます)とカネボウが作り上げた「舞台白粉」の製造・発売秘話を紹介したい。舞台・映画全盛期にあわせ、舞台白粉、舞台化粧が進化を遂げ、今日の礎を築いた人々の物語である。



「舞台白粉」商品化は、歌舞伎の大ファンであり、常々品質の良い白粉の開発のために試行錯誤していた、ケービーケー(KBK)商会創立者の丸岡文平社長と、11代團十郎との出会いから始まった。両者の思いが一つになり、「最高の舞台白粉」プロジェクトは動き始めたのである。
その推進部隊の責任者がケービーケー(KBK)商会の研究所の常光敏治技師長である。カネボウ化粧品の名技術者として知られる方で、彼が「團十郎・舞台白粉」の処方を手掛けた。残念ながら常光さんは亡くなられているが、当時の常光チームに角田さん(後の中原工場長)と会田康二さんがいらした。会田康二さんとは、現在もおつき合いをさせていただいている。(株)コスメティック・アイーダの会長として、以前ブログでも紹介した「舞台白粉」「ステージカラー」の総販売代理店をお願いしている方でもある。



会田さんからは、丸岡さんや常光さんとの思い出を数多くお聞きしたが、舞台白粉づくりに話がおよぶと「練白粉の要は『混合の技術』にあり、常光さんの下で、特に練りこんでいくローラーの作業に、細心の注意を払ったことは忘れられない」と話してくれた。

後の團十郎との「舞台白粉」、團十郎の「色」と「持ち」を追求した白塗りの「カネボウ・ステージカラー舞台白粉」の成功に貢献することになるのが、完成の6年前、1956(昭和31)年4月に発売したステージ用ファンデーション「カネボウ・ステージカラー」である。温度差にも崩れないというのが他社に負けない特色である。

当時ファンデーションはマックスファクターのスティック状油性白粉「パンスティック」が主流であった。一般的にスティック状油性白粉は、夏仕様は冬に固まり、冬仕様は夏溶けてしまうという課題があった。常光さんはそれを「チクソトロピー理論」(粘度ある物質の分散系の時間依存性)を応用して年間使用を可能にし、全国一斉にカネボウ化粧品の販売ルートで発売したのである。

同年7月、日本色彩研究所と協力して、カラーフィルムにおいて肌色が再現できる原料配合を開発し、テレビ・映画・演劇用ファンデーションを完成させたのである。NHKでの使用を皮切りに、多くのテレビ局と映画界に使用されていった。日本のファンデーション普及の先導役を「カネボウ・ステージカラー」が担ったともいえた。

「カネボウ・ステージカラー・舞台白粉」は、11代團十郎のお墨付きをいただき、全国のカネボウ販売ルートで取扱いをしていた。歌舞伎や舞妓さんの舞台白粉市場はもとより、舞台・演劇界、映画界などのステージカラー市場は、そんなに大きくなく、事業としては厳しいものがあり、やがて他の大手メーカーが軒並み撤退していった。
こうした大手メーカーの生産中止は、小規模とはいえ業界内での供給が滞る事態を招いた。

京都でその話を耳にしたカネボウは「舞台白粉」の生産を止めるどころか、安定的生産を目指して協力会社「紀伊産業」とも相談し、カネボウ鴨宮工場での「舞台白粉」の生産開始を決断した。今から18年前の1995年のことである。

当時のことを、鴨宮工場の棟方邦彦さんに教えていただき、驚いた。
「舞台白粉」生産にあたり、あらゆる最新の化粧品生産技術と機械化を試行したという。
ところが、いくら試しても「舞台白粉」は粘度が高く現在の混合技術仕様の機械は使えない。「とり餅」のように引っ付いてしまいどうしてもうまくいかない。

最終的に彼の出した結論は、「原点に返り、手作りにする」ことであった。独自の杵を作りローラーにかけて練る。そして出来上がった「練り白粉」を一つ一つ、手作業で箆(ヘラ)を使い容器に詰めていく。効率最優先の今、なんという非効率な作り方であろう。



その「手作り」の決断から分かったことは、そもそも「舞台白粉」が、一つ一つの手作業、手作りによって完成されていて、残念ながら如何に技術が進化しようが変えようがないということであった。

11代團十郎とカネボウが作り上げた「舞台白粉」は、当初から多くの影の力を得て、半世紀を超えて今なお、処方だけでなく生産工程についても全く変わることなく生き続けていくことになったのである。現在、「舞台白粉」から「ねり白粉・ピンク」「ねり白粉・白」の2種類も加わり多くの演劇・映像関係者にご愛用いただいている。これらは、すべて「手作業」である。

團十郎の「舞台白粉」の歴史を振り返ったことで、当時カネボウが「フォアビューティフル・ヒューマンライフ」、「芸術化産業のカネボウ」として消費者や社会に貢献することを標榜していた頃の一端を知ることが出来た。
その後、2003年、カネボウは、産業再生機構入りし、一時は生産を諦めるところまで追い込められたが、幾多の危機を乗り越えながら、周りの人々の理解と協力によって「舞台白粉」の伝統、そして「フォアビューティフル・ヒューマンライフ」、「芸術化産業のカネボウ」を守ることが出来たのである。

「価値あるものは、滅びない」

どんなに時代が変わり、環境が変化しても、変えてはいけないことがある。ビジネスの世界では「損か、得か」が幅を利かす。個人的な人との付き合いは「好きか、嫌いか」が幅を利かす。世の中は「善か、悪か」が幅を利かすのだろうか。しかし、よく考えると、すべてが曖昧な物差しに思えてくる。価値観が異なる人々とのやり取りには、明確な答えなど無いのだろう。

「舞台白粉」にかけた11代團十郎の「色」と「持ち」への並々ならぬこだわり、それを製品化したカネボウの研究陣、それを手作業で作り続ける生産の人々、その人たちの「思い」を察すると、皆さんが同じ価値観を持っていることに気付く。前にもお話したが、京都で「舞台白粉」の歴史を知った12代團十郎さんが、声を絞るようにして感謝の気持ちをあわらしてくださった。11代團十郎をはじめ、「舞台白粉」にかかわるすべての人の価値観が共鳴したようであった。

人への優しさに溢れた亡き12代團十郎さんの心は「歌舞伎を愛し、市川一門を愛する方々に、いつまでも喜んでいただける」ことに、「最上の価値」を置いていた。
だから「市川團十郎」の唱える価値を、共有・協働できる人々は、全てが仲間だと思う。


我々が求め続ける「お客様の笑顔」とは、自分を取り巻くすべての「人」や「こと」にも通じる。もう一度自分に言い聞かせながら、「出会いは人生の宝」を噛みしめた。


田辺志保