2013年10月15日火曜日

漢字語源研究者・刻字家の高橋先生の教え。(後編)

志保」の漢字の意味を知って、私は変わった


高橋先生との出会いによって私が「志保」であることの意味を掴んだ6年前の出来事を紹介したい。その日、先生は「漢字」の歴史や「漢字」のもつ本来の意味などをわかりやすく話し始め、私はだんだんと古代文字の説明に引き込まれていった。

代表的なものに、子どもにつける名前がある。中には、ひらがなの名前もあるが、ひらがな自体、そのもとになる漢字がある。先生はそんな説明をしながら、私の名前をハガキ大の「書」にしてくださった。初めて目にする「志保」。びっくりした。従来の字とは全く異なる文字で書かれていた。何故、この字かの意味を受けて更に驚いた。


「志保」は普通、男の子には見られない。私は幼稚園の頃「幼少期の名前」と思っていて、大人になれば変わるものと信じていた。しかし未だ58歳の「志保」である!女性と間違えられることも少なくない。確かに違和感はあったが、気に入っていた。そして、この漢字の本質的な意味から、自分の名前の「使命」のようなことを知ることになった。


「志」  
この字は、上の部分の「士」と、下の「心」が組み合わさってできた字である。
「士」とは、人が地面の上を2本の脚で歩いている姿を指す。
「心」は、人の心臓の形を表す。
つまり、「歩いている方向」と「心・思い」が同じであることを表現しており、これを、「志す(こころざす)」という。
こうなりたい、と思うだけではダメで、実現に向けて、行動して、歩み始めてこそ「志」と呼べるのである。


「保」
「イ」と「呆」の組み合わせ。
「呆」は頭の大きな人の姿を表している。頭の大きな人とは、子どものこと。つまり、まだ成長過程の子どもであり、その無邪気で奔放な様子を指して、「呆れる」と読む。子どもの傍らで親しみを込めて、支える人(親や師、友など)が上から横から見守っている姿を「イ」で表す。

「人を育み、成長させること」に対して、身も心も同じ方向で行動する姿である。「志保」という字はこの姿を表しており、まさに人材育成をやり遂げる名前になる。

全国の流通担当や販売会社の時代、周囲から「優秀な営業軍団」と言われ、営業力やマネージメントの評価はあったが、「身も心も人材育成を背負っている」という表現は、お目にかかった事がない。正直驚いた。人材育成部門の役割のようだが、「人の成長と会社の繁栄は、両輪をなす」と考えると、本質が強く腹に落ち「自分の使命」と思えたのだ。

古代中国、象形文字として生まれた「漢字」は、その本質的意味を抱えながら、当時の人々の想い・哲学・感情などを凝縮させ、古代日本の人々の想いや心模様が重なり合い「漢字」として出来上がっているという。この悠遠な3000年の記憶が、残り香のように漢字一つ一つに立ち上がっているといえる。

「名は体を表す」

高橋先生は、「人は自分の名前を背負います。約95%の方々は『名は体を表す』は本当のことです」と言う。95%以外の残り5%の方はと不思議に思って尋ねると、
「背負わないのではなく、語源の意味を解明できないのです。たとえば『音』や『画数』から、当て字をあてるとか、外国人の名前を当て字にした場合も解明困難です」と。確かに、あとづけの漢字だと、語源をたどっても説明が難しくなりそうだ。

ひらがな・カタカナは、もっと面倒かと思うが、大丈夫という。それぞれ、元の漢字があり、その語源を語るそうだ。そもそも「ひらがな」は草書体であり、速記によって簡略化された字なので「あ」は「安」、「い」は「以」から変化した字だそうだ。
「カタカナ」は、というと、「片カナ」とも書き、漢字の一部を採って作られた字である。「ア」は「阿」の左片方の変形、「イ」は「伊」の片方である。

したがって同じ名前の愛ちゃん・あいちゃん・アイちゃんは、3人とも背負う語源が異なることになる。

先生は「名前の解説を始めたころは、漢字の名前に比べて、ひらがな・カタカナ名前は難しいなどと思った時期もあったが、多くのひらがな・カタカナの名前に出会って、元の漢字を組み合わせると、素晴らしい語源の名前が多い」と。そして「不思議と、組み合わせが素晴らしいのです」と感心されていた。

漢字を名前に使用する場合は、語源から見て名前に相応しい漢字が多く、相応しくない漢字を使用の名前は気の毒になる。「ひらがな」も「カタカナ」もその字にたどり着くまでに、厳選された漢字が転化されて、名前にも相応しいものが残ったのかもしれない。

色々と書いたが要は、私たちの名前は一文字一文字にその成り立ちと意味をもって、出来上がっているということ。親や祖父母など名前を付けた人々がその語源を完全理解しているとは限らない。父親に「志保」と名付けた心中、いきさつを聞いたら、
「政治家だと投票しやすい名前であり、何より好きな本のヒロインの名前であり、実は女優の藤村志保も好きだった」と言われた。「好みのオンナかよ」と言った記憶がある。

しかし、命名の経緯より、自身の名前の本質的理解が重要なのだ。古代漢字の語源に遡ることだけが、本質ではない。自分の名前を付けた人への感謝とともに、わかる範囲でその意味を前向きにくみ取り、自分が背負う、気構えが大切だと思う。

私は「志保」の名に恥じぬよう、縁ある人々の成長に役立つ生き方が出来たらと思う。自分が得たことを、語り継ぐ「伝承者」になれれば最高である。しかし「伝承者」になるには、あまりに自分は未完成。自己啓発の努力も、人間力も中途半端。人としての成長は、生涯の課題であり、終わりのない使命なのだと思う。

あなたの名前には、どんな意味、想いが秘められているのだろう。

田辺 志保

2013年10月1日火曜日

漢字語源研究者・刻字家の高橋先生の教え。(前編)

「己が背負った『名前』を全うする」

常々、「出会いは人生の宝」と語らせて頂いているが、今回は6年前からお世話になっている刻字家(こくじか)・高橋政巳先生を紹介したい。




高橋先生は、福島・喜多方で、楽篆工房(らくてんこうぼう)を運営されていて、時に楽篆家(らくてんか)ともおっしゃる。先生の決して尊大にならず、控え目で自分を見失うことなく、絶えず正しい行いを常としている姿を人生の様々な局面で必ず思い出す。

多忙を極め、めったにお目にかかれない人だが、今回は福島支店長の井上さんと一緒に、高橋先生ご夫妻とお話しする機会に恵まれた。お互いの近況報告、漢字の話、漢字のまち、喜多方の町興しの話、人生の話、友や家族の自慢話へと尽きることはなかった。

「刻字家」「楽篆家」と言ってもお分かりにならないと思うので、先生の著書『感じる漢字』(扶桑社)のまえがきを引用させていただく。

「古代漢字に魅了され、私は『楽篆家』と名乗っている。刻字といって木や石に文字を彫ったり、書で書いたり、古代漢字の書体の一つである篆書(てんしょ)を楽しみながら表現している。だから楽篆家だ」

高橋先生は「古代中国の漢字」研究の第一人者で、刻字家として古代文字の語源をひもとき、それをデザインし「書」と「刻字」に表す希少な方である。
古代中国3000年以上の歴史をもつ漢字。古代漢字一文字一文字には、古代中国の人々の想いや感情、哲学など「心の在り様」が凝縮して形成されており、それが日本に渡り、古代日本の人々の想いが重なり合って「日本の漢字」として独自の変化をし、今日生き続けている。

先生によると、日本の「書」では、まず全体のバランスを見て構図を決めていく。構図を決めたら、何回も何回も書き込んで、「書」としての形を作る。そして、本番で「書」を完成させる、この流れが多いそうだ。これは、紙が豊富にある日本ならではのスタイルのようだ。
一方、中国では、古来より紙は貴重品であり「書」と言えば、その場で、決して書き損じることなく、与えられた1枚の紙の上に一気にデザインするのが書道家の姿と聞いた。

語源を確かめながら、先生の古代漢字で書かれた「書」を眺めると、漢字のもつ知恵と美しさに引き込まれてしまう。

学校の「漢字教育」に、高橋先生の古代文字研究に基づく語源や、形の意味などが、採用されるという話も伺った。ニューヨークでも「漢字の個展」を開き、外国にも多くのファンをもっている。

当初から気取ったところがなく、故郷の喜多方と、笑顔が素敵な奥様をこよなく愛し(今回の再会で痛感)、時代に流されること無く、常に謙虚な姿勢、物腰が丁寧で、とても誠実な方で、お会いした時から、私も大ファンになった。

「感じる漢字」

思い起こせば、先生の古代漢字の「書」に魅せられ、東北時代から社員の達成記念品や、大切な方への贈り物、出産祝いなどに、先方様のお名前を「額入りの書」にしていただいて、購入し、プレゼントしてきた。そして、多くの方に喜んでもらった。
我が家にも、家族4名の名前入り「書」と「会津塗の箸」、夫婦の「飾り扇」がある。もうこれは、田辺家の家宝である。


古代文字で書かれた「額入りの書」は、今までに見たこともなく、漢字の語源を知ったうえで眺めると、先方様は決まって感激する。
そこで大事なことは、私が、いかに正確に先生の漢字分析を伝え、その文字のパワーごと先方様に感じ取っていただくか、ということである。事前の私自身の勉強がモノをいう。

以前、こんな話があった。親子で名前に「愛」の字を使われていた方がいらして、「愛」の字をさらに深く知りたくなったので教えてほしい、と言われた。
朝早くか夜遅くなのかは忘れたが、随分失礼な時間に電話で、突然尋ねたことがあった。
「高橋先生、もう一度『愛』の字のもつ意味について、詳しく教えて下さい」
実は、その時、先生は講演のため移動中であった。にもかかわらず気分を害した様子ひとつみせず、空港の待ち時間に携帯電話で折り返していただき、スラスラと応えてくれた。

「愛」の字の語源である中国での解釈と、日本に伝わり変化してきた「愛」の解釈の違いを教えていただき、先生の驚異的な知識量と、素晴らしい解析に、「愛」のもつ力と歴史に感激してしまい、暫く仕事が手につかなかったほどである。
先生から学んだ一部をご披露しよう。

身も心も動きがとれないほど切ないのが「愛」

「愛」という漢字の形は「後ろを顧みて、たたずむ人の姿」と「心」の組み合わせで出来上がっている。これは身動きがとれない姿を形にしたものでもある。
古代中国の人々は、立ち去ろうとして後ろに気持ちが惹かれる思いを「愛」と表現した。
「いとおしむ」「いつくしむ」の思いだ。この人がいなければ、いられない、去りがたい、という存在が「愛」という漢字になる。
愛する人を得ることは人生の幸せだが、愛される人にもなりたいと思うばかりだ。
詳しくは高橋政巳先生の『漢字の気持ち』(新潮文庫)や、『kanji no kanji』(扶桑社)などを手にしてほしい。
感激すること間違いなしである。



そんなわけで、作品が届くたびに、根掘り葉掘りと尋ねる私の一方的な電話に、都度丁寧に対応いただき、逆に「田辺さんの熱心さが嬉しい」とおしゃってくれる。そんな高橋先生には深く感謝している。そして、奥様にはもっと感謝している。

いつも優しくまわりに目配りされ、先生を上手にコントロールされている!?
私のブログもチェックして、伝えていただいているようで、私がざっくばらんに先生と会話ができるのも奥様のお力添えがあってのことと思っている。

私は高橋先生に出会ったおかげで、自分が背負っている「名前」の意味を理解し、そこから自分の使命感を知ることが出来た。自分の生き方や、人とのお付き合いも少し変わった。「人生の幅」が広がった気がする。プレゼントした多くの方からも、高橋先生の「書」によって、「自分の可能性や感謝の心持ちが変わった」などと、嬉しい言葉が届いた。


田辺 志保