2014年5月29日木曜日

筆の世界に生きる竹森鉄舟氏との出会い<前編>

小手先でゴチャゴチャやったところでしょうがない。

人の心の本質をつかむ。

広島県熊野町は筆の産地として有名だが、ワールドカップ優勝の女子サッカー「なでしこジャパン」に熊野の化粧筆セットがプレゼントされたことで、広く知られるようになった。その熊野筆の第一人者が竹寶堂(ちくほうどう)・竹森鉄舟(たけもり・てっしゅう)会長だ。化粧品業界でも著名で、熊野の化粧筆を世界中のアーティストが絶賛するまでに育てた立役者である。私が鉄舟会長と出会ったのは2004年の春。当時、私は美装品部門の責任者として本社ビルで会った。気難しい職人をイメージしていたことと、大きなお願いの快諾も希望しており、かなり緊張していたことを覚えている。

カネボウは1989年から、鉄舟会長に高級化粧ブラシシリーズ「アーティストセレクション」をお願いしていたが、私はそれ以上にカネボウの筆づくりに専念していただきたいと考えていた。鉄舟の名前を冠した「鉄舟(てっしゅう)コレクション」を発売したい、つまり「鉄舟」の名をカネボウに貸してください、を打診していた。

その頃、化粧品メーカーはこぞって鉄舟会長の筆を欲しがり依頼が殺到していた。竹寶堂にしてみれば、カネボウに鉄舟の名前の独占的使用権を委ねることは、他のメーカーからの仕事が無くなることでもあり、簡単に承服するわけにはいかず大きな賭けである。ついてはカネボウから継続的生産見込みを取りつけ、職人を含め百数十名からなる竹寶堂の社員と事業を守らなければならない。

私との出会いは、そんなお互いの思惑を胸に秘めての面談であり、お互いどんな人物なのか、見極めたいという思いがあったのは言うまでもない。ところが、私は鉄舟会長の柔和で温厚そうな顔立ち、言葉少ない広島弁の語り口、気負いのない素朴な人柄に、一目で魅せられてしまった。同席された息子の竹寶堂社長・臣(しん)さん、常務の村田さんとの会話も忘れられない。

私の家族が年間パスポートで東京ディズニーランドに通っていることを話すと、村田さんが、TDLの思いを話し出した。障害をお持ちのお孫さんが、スタッフから「楽しんでいますか、ご不便ありませんか」と声をかけられ、普段見たことが無い喜び方、笑顔を見せたという。そして帰りの出口で、両親に向けてスタッフがお孫さんの手を握り締めて「また、遊びに来てくださいね」と言われ、感極まり娘さんと涙した話を打ち明けた。

私は不覚にも涙ぐみ、鉄舟会長の目にもうっすら涙が。入室したうちの担当者が、皆で涙する光景に仰天したほどである。

そんな雑談を交わしつつも、私は「安心して『カネボウの鉄舟コレクション』と共に歩んでもらいたい」と、共同取り組みを迫った。何としても鉄舟会長とカネボウとの取り組みを実現させたかった。じっと話を聞いていた鉄舟会長は顔をあげ、私の目を見て一言「これからも宜しくお願いします」。「鉄舟コレクション」が誕生した。


秘策が実を結ぶ。

鉄舟会長はあの日、相当な不安と緊張を強いられていたという。なぜなら「カネボウ産業再生機構入り」が新聞、テレビで朝から大々的に報道され、カネボウが自力での再建を断念と言われていただけに、不安でたまらなかったらしい。そんなドタバタの中、竹寶堂、鉄舟会長と本格的なお付き合いが始まった。2007年、化粧品専門店ブランド・トワニーから、今までにない最高級フェイスブラシを作ることを決定し、新たな鉄舟会長との名品づくりが始まることになる。

お願いした最高級フェイスブラシには希少性の高い、入手が難しい「ハイリス(灰栗鼠)」の毛が使われた。筆(ブラシ)づくりは毛の厳選に尽きるという。特にフェイスブラシは上質な長い原毛だけを使用するため、まず、確保するのに苦労する。そうして集めた原毛を選別し、硬さや太さ、クセなどが1本1本異なる天然毛だけに品質を維持するための混毛作業、天然毛特有の脂を取り除いて毛をまっすぐにする作業、半差という筆づくり専用の小刀で逆毛や擦れ毛を取り除く逆毛取り、化粧筆の命とも言われる穂先(毛の形)を作るコマ入れ、その毛を針金でしばる、穂先をより完璧な形状にするための揉み出し、穂先を軸に取りつける金具つけ、プレス、整形、毛の固定、むだ毛の処理、軸づけ、最終検査……と、気の遠くなるような作業を経て、ようやく1本が出来上がる。1日に何本できるだろう。



思いついたのが、トワニ―店様がお客様から予約をしていただく完全オーダーシステムだ。予約数分の原料を用意して1本ずつ丁寧に生産し、ご予約いただいたお客様のお名前をブラシに刻んで桐箱に入れてお届けする仕組みを作った。これは、絶対にお客様の「一生モノ、私だけのフェイスブラシ」になる、と自信があった。その予約活動開始の準備に追われ始めたころ、私にカネボウ販売の東北地区の責任者の辞令が下りた。

私は何としてもこのブラシを成功させたかった。予約活動に弾みをつけるために、鉄舟会長に東北のトワニー店様の奥様方と、直に接して知ってもらいたかった。すぐに広島・熊野に向かった。鉄舟会長は気持ちよく北東北の盛岡と、南東北の仙台のセミナー会場に来てくださり、名筆司の話と実演、長年の筆づくりでできた小豆大の瘤まで披露し、気軽に記念撮影に応じて、会場の奥様方の心を打ち、東北が断トツの予約数を獲得した。


セミナー終了後の翌日、松島にお誘いした。宿で、会津の樂篆家・高橋政巳先生にお願いしておいた「鉄舟」の書を差し上げた。高橋先生は「あの熊野筆の鉄舟さんですか?これは光栄です」と驚かれ、書を手にした鉄舟会長は「名刺に使いたい」と、嬉しそうに見入っていた。帰り際に「松島も素晴らしいが、宮島も素晴らしいですよ。いつか必ず、世界遺産の宮島をご案内したい。広島に来てください、約束ですよ」と力説された。

言葉以上の心を通わせる。

それから2年後、2009年に再会の時が訪れた。カネボウが花王入りして、最初の交流人事として、私は花王の販売会社(花王CMK)の中四国地区の責任者として広島への赴任が決まった。辞令交付を受けたその日、鉄舟会長に連絡をした。
「鉄舟さん、松島での約束、果たせますよ。今度は広島に転勤だ」
「え、本当ですか。こんなに嬉しいことはない。心より待っていますよ」
残念ながら、広島時代は花王籍のため仕事の関係はなかった。ただ、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいた。私と家族が「広島を第二の故郷」と呼ぶ理由の一つに、鉄舟会長をはじめ竹寶堂の皆さんの存在がある。

2011年3月、花王出向を終え広島を去ることになり、鉄舟会長に電話でご挨拶に訪問したいと伝えると、普段温厚な鉄舟会長が電話口で怒り出した。
「約束したじゃないですか。私は初めてお会いした翌年から『筆の日』にお誘いしています。来週の3連休は筆の日です。ご家族では最後になるかもしれません。ぜひ皆さんで来てください。忙しいのは分かりますが、このままでは、あんまりだ……」

広島に来てからあれこれ理由をつけて訪ねることができなかったことを、本当に申し訳なく思った。商売上の付き合いではなく、真の友として別れを惜しんでくれ、二人の間に言葉以上の心が通じた、嬉しかった。家内に話すと「みんなで行こうよ!」と。

鉄舟会長ご夫妻、臣社長ご夫妻、村田さん、竹寶堂の皆さまの歓待ぶりに家内、子どもたちはびっくりしながらも、嬉しそうであった。熊野の街並みや竹寶堂の工場、筆の里工房を案内していただき、お昼は評判のお好み焼きをごちそうになった。どうやら鉄舟会長は、私たちにこのお好み焼きを賞味させたかったらしい! 我が息子は今も、熊野のお好み焼きがナンバー1と言っている。その店は今年、広島お好み焼き25選に選ばれた。メジャーになりすぎて女主人が腱鞘炎で入院していたが、今は元気に復帰したという。


鉄舟会長と出会って、私は商売を超えた「人との繋がり」を教えて頂いた。そして、そこにロマンを感じ、尊敬して共に仕事をしたいと思った。