2014年6月16日月曜日

筆の世界に生きる竹森鉄舟氏との出会い<後編>

素材にこだわり、工夫を重ね、手技を尽くした化粧筆。

熊野の筆づくりは世界で一目置かれる職人技。



先日、7年ぶりに広島・熊野の竹森鉄舟会長を訪ねた。今一度、最高級のフェイスブラシをお願いするためだ。鉄舟会長が追及し続ける化粧筆づくりを、原毛の選別、原毛の油抜き、筆の穂(軸先から先の部分)の腰、腹、のど、命毛(毛先)の設計など、一連の工程を見せていただいた。私は、自分が売るべき商品が作られる過程を体感し、改めて、確かな技術に裏打ちされた化粧筆の奥深さを知った。そして、鉄舟会長が紛れもない熊野筆の第一人者、最高峰として存在していることを再認識した。



もともと漢字が生まれたのは中国だから毛筆も中国で発展したものと思うが、毛筆づくりは熊野を筆頭に、日本が有名である。漢字とひらがなの独特の文字を書き上げる「仮名筆」をはじめ、日本独自の細い筆なども生まれた。戦後、日本は欧米を中心に「絵筆」の生産国として栄えたが、毛先に拘る技術を誇りながらも、国際的な価格競争についていけなくなった。安価な量産化の波にのまれた。しかし、あなどってはいけないのが高度な職人技。筆の先端の命毛に拘る職人技は世界からも一目置かれる存在なのだ。

2007年、東京で行われた展示会「ビューティーワールド ジャパン」に、竹寶堂が初めて出展した。そこで竹寶堂を知ったNHKが、NHKワールドTVの「JAPAN BIZ CAST」で「日本の技」シリーズとして竹寶堂を紹介。全編英語で世界に放送された。さらに、その番組が評判を呼び、2010年には同じNHKワールドTVの「OUT&ABOUT」で、竹寶堂と熊野筆だけの特集番組が放映された。熊野の筆づくりの職人技や、竹寶堂の化粧筆の素晴らしさが存分に伝わる素晴らしい作品だった。まさに、熊野の筆と鉄舟会長が、世界に認められている証しと、我がことのように嬉しかった。

毛筆は、書道はもちろん、水墨画、浮世絵、日本画などの分野での需要の高まりとともに、細分化されていった。細かいものを描く「面相筆」などが生まれ、「化粧筆」へも優秀な筆づくりの職人が育っていった。鉄舟会長はそうした熊野筆の伝統筆司を認定するお立場にある。

苦労人が作り上げる極上の化粧筆。

鉄舟会長は、熊野で生まれ、育ち、熊野から離れたことがない。では、いかにして「鉄舟」の名が世界に紹介されるほどになったのか……。

竹寶堂・鉄舟は筆司としては当代が2代目。昭和27年、父・一男が熊野町で伝統工芸「面相筆」の穂首づくりを家内工業で始めた。面相筆とは人形の顔を描くために作りられた細かい部分や流線を描く筆である。その面相筆の下請け業を営む父のもと、見習いとして家業を手伝い始めた昭和30年代、化粧品メーカーがこぞってブラッシング化粧法を導入し始めた。鉄舟会長は面相筆の作り方から化粧筆づくりを試み、その基盤を作った。フェイスブラシ、チークブラシ、アイシャドウブラシ、紅筆などあらゆる化粧シーンに登場する化粧ブラシの技術を完成させたのだ。

鉄舟会長に時代を読んだ経営者という括りは当てはまらない。「絵筆」の量産化から見放され、父の面相筆の穂先づくりから化粧筆への活路を見いだして必死に作り続け、「世界の鉄舟」になったのだ。毛先の1本1本に目を凝らし、手のひらに小豆大の瘤ができるまで、頑なに筆づくりにのめり込み、たたき上げた、本物の苦労人である。

昭和461971)年、現在の竹寶堂を設立。鉄舟会長は39歳、17歳から見習いを始めて22年後だ。鉄舟会長は13歳で戦争を体験。幸い戦災を免れたが、広島の原爆で多くの学友を失っている。広島市内の中学2年生の時、学徒動員で2年生は全員、学校から離れた工場で働いていた。市内の学校には1年生が残り、その1年生の殆どが被爆して亡くなったという。中学が広島市内にしかなく、学徒動員されたことで生き残ったのである。

御年82歳の会長はたびたび口にする。「私は原爆の生き残りですから、頑張らんといけんのです」

真の強さ、謙虚さ、自分の置かれた環境の中で執念ともいえる情熱を燃やし、エネルギーを集中させて一つの事をやり続ける職人根性などは、「生かされている意味と意義」を求め続ける気持ちが根っこにあるような気がする。

筆づくりの根幹はゆるがない!

人件費の安い海外企業が熊野の筆づくりの伝統的技法を真似たことから、一時、海外生産の波が押し寄せた。しかし、数年もすると熊野に生産依頼が戻ってきたそうだ。海外での生産を目論んだ人々は、効率化を求めて手間暇を惜しみ、結局、市場から撤退したという。いいモノを作る、お客様のため、お客様が喜ぶモノを作る、これを踏み外してはいけない。それには精度が求められる。

鉄舟会長の毛先を傷めず自然な形に毛先を揃え、形づくる技術「穂」を作る毛を束ねる手技などはその最たるものだ。「半差(はんざし)」という専用の小刀を使って毛先1本1本を確認しながら、毛先の間に刃先を当て、上に向けて抜いていく技などは、刃先が下に向けて擦っていく、しかもカッターナイフを用いる海外技法とは比べものにならない。



職人は道具を大事にする。職人の朝は、何百本もの半差の刃を2~3時間かけて研ぐ作業から始まる。その半差使いを習得するには少なくとも3~5年かかるという。ほかにも化粧筆に応じた原毛の選別・油抜き、命毛の設計など全ての工程を一人でこなすまでには相当の年月を要する。半差使いをはじめ、繊細で丁寧な仕事が日本の、いや熊野の職人技、真骨頂。工夫と技が生む用の美を備えた筆を作り上げる、一人前の職人となるのは並大抵ではない。

鉄舟会長が精魂込めた筆は毛先の柔らかさが肌にしっくりなじむ。慌ただしい朝の化粧も、筆が肌に触れると一瞬にして引力が感じられる。父・一男の背中を追いかけて17歳で筆づくりに投じ、器用に様変わりすることなく、体で覚えた微妙な味、芸術的ですらある化粧筆を作り上げる。これこそが熊野筆が世界に認められた源。多くの女性が絶賛し、絶対的な信頼を寄せるのがわかる。

一人前で満足せずに精進した先にある「一流」「名人」。限られた人しか到達しない世界だが、鉄舟会長は「評価は人のすること」といった風である。
家業を継いで65年。鉄舟会長は二つの事を常に心に秘めている。化粧筆の完成には多くの職人が各パーツを担うが、職人一人ひとりを名人の域に到達できるように育てる事と、進化するメイク技術に呼応する道具づくりのチャレンジャーであり続ける事。それには仲間の和と試行錯誤を繰り返す粘り強さが欠かせない。

今、鉄舟会長はご子息、お孫さんはじめ、熊野の若い職人さんたちへの技、技術の継承に余念がない。時々、どのくらいまで育ったかを振り返って見る。期待もかけるからいろいろ試させる。失敗した経験のない人はカンや直感力が乏しく育つ。職人技の心のありようも伝え、見守る。このやり方、古びた世界のようだが新鮮に感じられる。

「私にはこれしかありません。広島の中心部から20キロ離れた熊野は、貧しくて農作でしか生きる道が無かったのですが、熊野の先人たちが京都・奈良に出向いて『日本の筆づくり』を習得し、それを我々が真正面に取り組んできたお蔭。こうして今、何とかやっていけるようになりました」



一昨年の秋、京都で執り行われた市川團十郎さんの「聖マウリツィオ・ラザロ騎士団」ナイト称号受勲式で、今は亡き團十郎さんが絞り出すように発してくださった、「カネボウさんのお蔭です」の言葉がふと頭をよぎった。先ごろ、鉄舟会長と團十郎夫人・堀越希実子さんとの、職人の自信と確かな使い手による高級化粧筆づくりがスタートした。その出来上がりに思いをはせ、期待感とともに心がじわりと満たされた。

田辺 志保