2014年9月24日水曜日

無意識の行動パターンを利用する。<前編>

店舗戦略「左回り」。

私は営業現場にいた頃、新規店舗の化粧品コーナーの設置をめぐって他社と常にしのぎを削っていた。いわゆる陣取り(場所取り)合戦である。特に大型店舗ではお客様の注意が無意識に向く、いわゆる一等地を押さえることだった。
で、その一等地とはどこか……。
大型店舗では入り口から入って左前の売り場である。勿論、業態や店舗ごとに異なるが一般的な大型GMSなどでは、まずそこに食品売り場を押さえようとする。そこからのお客様導線をみての、化粧品コーナーの位置要望と、コーナー決定後でも場所取り優位は、やはりこの場所である。

小売業では「左回り(反時計回り)」を取り入れた店舗戦略が知られる。駅を出て駅舎を背に立つと、人はおうおうにして「左」の方面に目をやったり、動いたりする傾向があり、入口が左右2か所ある建物に入る時は左の入り口から入る人が多いなどといわれていたことから、左側入口付近の左側を押さえることに私は力を注いだ。
この左回りはキャンペーンや売れ筋商品の陳列にも当てはまる。大型店舗では周囲の売り場によるお客様の導線を予測しながら、店舗内を壁に沿って左回りで回遊を計算したのだ。

余談だが、美術館や水族館などは左壁回りが多く、遊園地でも幼児用のメリーゴーランドは左回り、意表をつく絶叫系アトラクションは右回りが多いということを聞いたことがある。


以前、元警察関係の方から面白い話を伺った。
容疑者取り調べの際、一般的な傾向として、身に覚えのある人ほどよくしゃべる、というのだ。少しでもやましい気持ちがあると、目が泳いでそわそわして、懸命に言い訳を並べ、そのうちに、しゃべりすぎて自分からぼろを出すそうである。
逆に寡黙だったり、ダンマリを決め込んだりしている場合は、色々なゆさぶりをかけて、じっとその反応を見るそうだ。人が、嘘をつく時の無意識の行動パターンというのがあるという。

私が駆使してきた店舗戦略「左回り」もまさに無意識の行動パターンである。
前にも触れたが無意識の行動パターンには、非言語的な無意識化の行動(ノンバーバルコミュニケーション)と、言語的な意識下の行動(バーバルコミュニケーション)があり、相手との会話では、言葉(言語)の与える影響はわずか7%ほどでしかなく、顔の表情やしぐさ、声のトーン、視線、身振りなどの非言語的行動が残りを占めるという。

そもそも人の心臓は、基本左胸にある。急所である心臓の破壊は、死に直結するので、人は無意識に心臓(急所)を守る行動をとるようになっている。したがって、人は心臓を内側に内側にと置くことで安心する。

通路では外敵のいない壁を左側にして歩く。実は、逃走する犯人の約8割はT路地では左折して逃走する。警察はそれを参考に逃走方向の左手に人員配置・シフトすることがあるという。相手が腕組みをするのも、こちらを警戒して無意識に心臓を守り、その相手を拒否する行動だ。商談中、相手が腕組みをしたら、つらい展開になることを覚悟したほうがいい。

警戒があれば、親愛もある。

カネボウでカリスマ販売員と称された人たちは、お客様の心臓側に位置する「親愛の距離」、ベストポジションにすっと入り込むことができる。

売り場に足を踏み入れたとたん、「何かお探しですか?」と販売員が近づいてきたので逃げるようにその場を離れたとか、購買意欲が一気に失せた……、そんな経験はありませんか?

自分の左右の腕を横一杯に広げてみよう。左右の指先までの距離は大体自分の身長に比例し、この両腕を広げた距離を自己のテリトリーと認識する。だからこの範囲に見知らぬ人が侵入してくると人は警戒する。
初めて足を踏み入れた店で、販売員が自分に近づいてきてこの範囲に入ると、「何か言ってくるな、声をかけられる」と構えるのだ。「何かお探しですか」などとつきまとわれると、ウインドウショッピングの楽しさが半減する方もいるだろう。

優秀な販売員はお客様との距離を絶えずこの警戒範囲の外で様子をうかがう。これは販売の鉄則だ。つかず離れず、絶えずお客様が「ちょっと」という感じで顔を上げる機会を待ちかまえている。そしてタイミングを逃さず、「はい」と言いながらスッと近づくのである。

さらに、両腕を下げ、ひじを起点に前へ持ち上げた状態の、体から指先までの範囲が相手を許す親愛の距離といわれる。40センチくらいだろうか。
その距離内に入り、それも相手の心臓側に位置したら「親愛のベストポジション」である。
この域に達するのは相当の信頼関係が築かれた証拠で、最良のコミュニケーション、会話ができる。そう簡単にそこに入り込めず、かなりの努力を要することだが、カリスマ販売員はなんなくクリアしているから尊敬に値する。


これは販売員のノンバーバル・無意識行動を考慮した最高のバーバルコミュニケーション行動の最初の一歩。ほかに、顔の表情やしぐさ、声のトーン、視線、身振りなど深く掘り下げなければならないことがたくさんある。
販売職に限らず、営業、製造ラインで仕事をする人にも、無意識の行動パターンの活用場面は数多くあり、自身の土台づくりとなることは間違いない。
勘違いしてはいけない。無意識の行動パターンを知る・理解することが大事ではない。それを、社会、仕事の場で通用する能力に育て上げなければ意味がないのだ。

自分の無意識行動を見直す。

「善濡直心」。「ぜんじゅじきしん」と読む。
善の心、濡れた心、素直な心を持とうという教えであるが、私はこう解釈している。
相手の心が殺伐として乾いている、と嘆くのではなく、それは自分の心が濡れていないからだと思え。自分が素直に濡れた心で接することでしか、相手の心は濡れてはこない。

そう思って自分の行動を見直すと、反省だらけだ。相手の話を聞くときに、腕を組む、時々目を逸らす、眉間にしわを寄せる、足を組む、笑顔を忘れる、話の腰を折る、数え上げたら切りがない。
人様を論ずる前に、人様が嫌がる己の無意識での行動を見直し、改めてみたい。
意識的行動が「善儒直心」を目的とすること、を肝に命じて取り組もう、と心に誓った。


田辺 志保

2014年9月3日水曜日

「言い訳」について考える。

最近、未だ本気を模索中の娘と、柔道以外に本気が存在しない息子に怒り心頭。テスト前にもかかわらず、大イビキの就寝姿を目にしてイラっとしたり、何かと気持ちがざらついたりして、叱りまくっている……。あまりにテストの成績が悪いのだ。子どもは「ちゃんと勉強したけど、たまたま習っていない問題が出た」「部活が忙しくて」などと必死で「言い訳」をする。もちろん私は「勉強不足!」ととりあわないし、「前期も同じ言い訳だったな」と、全く変わろうとしない気持ちを指摘して、テスト以外のこともあげつらい、執拗に叱ることになる。
「やればできる子だから、今回はしょうがない」と大目にみる親も多いようだが、私はそれで終わらせてはいけないと思っている。


何かを成そうとしてそれを実現出来なかったり、叶わなかったりしたとき、多くの人は、その失敗や過失などについて、そうならざるを得なかった、いわゆる「言い訳」をする。
本人は「言い訳」というより、失敗した理由や事情を説明して了解をとるつもりなのだが、相手にはそう映らない。そこに、自らを正当化しようとしたり、時には相手に責任を転嫁したりすることが多いからだ。

「言い訳」は勉強に限らず、仕事の場でも、聞くに堪えず、見苦しい。
「ごめんなさい、遊んでばかりいた」「申し訳ありません。私の力不足です」と、正面から言われると、こちらとしても、「どこが?」とか「何故?」と事の次第を確かめてみようか、もう少し話を聞いてみようか……などと気持ちが動く。そのうち、こちらがその理由を慮って、叱ることを忘れてしまうこともあるのだ。今回、この「言い訳」について少し考えてみたい。

「言い訳」ではなく、「説明」に徹せよ

一般的に「言い訳」には、無意識に自分が一番かわいくて己を守ろうとするからだろうか、責任転嫁が多い。私の経験上、原因に目を向けずに自分の正当性を述べるとき、自分の対処法ややり方がまずかった、多少の後ろめたさがある場合は声のトーンが落ちるものだ。さらに、目を逸らしたり下を向いたり、まして鼻や口に手を添えたら、口先とは裏腹な証拠だ。

仕事でいえば、総じて「言い訳」の多い人ほど、自慢が多く、うまくいったときは自己アピールタイムとなる。首尾よく終われば自分のおかげで、失敗したら人のせいとなる。これは最も嫌われる。
逆に、上首尾は人様のおかげ、お力、失敗は自分の至らなさ、力不足などと口にされると、「なかなかやるな~」と好人物を印象づけ、株が上がる。私は、相手が失敗に肩を落としていれば、「そう気を落とすな」「自分を責めるな」といったやさしい言葉(!?)をかけて、時には策を一緒に考えようと思ってしまう。

だから「解決できない理由をあれこれ並べるより、一つでも二つでも自分で出来る対策を考えろ」と言いたい!

一方、言い訳の「上手な聞き方」というのもあるように思う。
以前、積極的傾聴でも紹介したが、たとえば報告を聞く際には、最初に結論から報告してもらうように促すことも一法だ。「うまくいきました」の次には必ず成功理由が続くので、どこでどう褒めるかを考えながら聞くことができる。逆に「失敗です」の後には「言い訳」が続くので、その中から、原因と対策を探るために耳を傾ける。

いきなり言い訳が始まったら、「言い訳するな、みっともない」と決めつけるのは考えものだ。相手とのコミュニケーションを深める絶好の機会だと思うことが大切。本音を探り、共有することだ。これは気づきのチャンスなのだから、部下育成に利用しない手はない。
そんなときには、眉間にしわを寄せたりせず、「ずいぶん頑張ったが、ここが甘かったな」などと、相手のプライドを傷つけず指摘して納得させることだ。間違っても相手を叱りつけないこと。自信を喪失させるだけで、問題解決にブレーキをかけてしまう。ここは自らに原因があることをきちんと理解してもらい、それを自ら直す、という気持ちへと導くのが得策だ。

また、「言い訳」ととられない上手な言い方があるようにも思う。責任転嫁ではなく、その場を、客観的に状況を説明する機会と捉え、事実を正確に表現することが大切だ。自分に非はなく、他人の非を暴くようでは話にならない。自責のフレームで説明してみることだ。他責には何も生まれないことを肝に命じたい。

立場は常に交互にやってくる、実はどちらも自分の事である。
やはり「世の中で変えられないことは、他人の心と己の過去。変えられるのは己の心と自分の未来」なのだ。


「叱り方」にもコツがある

以前、「叱り方の極意」を伝授されたことがある。
ポイントは3つ。「その場」で、「その事だけ」を、「短く」という。

大切な会議に遅刻した社員がいた。すぐに「なぜ遅れたのか」とその理由を尋ねるのは最悪らしい。なぜなら「実は子どもが交通事故にあって」といわれたら「それは大変だったな」となって、叱るどころではなくなる。
そんな時は、最初に「遅い!」と一言、これだけで十分。遅れた事実に対して、その場で、その事だけを、短く、である。後でじっくりと説明(言い訳)を聞く時間を設けることだ。

私は時々、この極意を忘れてしまうことがある。
冒頭に述べた、子どもを叱る姿が最たる例だ。

ここで絶対にしてはいけない最悪の叱り方を伝授しよう。
「その場以外」に、「その事だけでなく」、「だらだら」とである。
これは、相手をつぶしてしまうので、封印する覚悟を持とう。

いずれにしても、自分に非がある場合は、説明でも言い訳でもない。「すみません」「申し訳ありません」の一言。「過って改むるに憚ること勿れ」である。

田辺 志保