2017年5月29日月曜日

「~のに、なぜ」から「と」を「の」に変える。

先回、マネジメントを面倒と思うな、と書いた。すると、ある方から「面倒でなく怖いのだ」と言われた。「先ず自分がしっかりする」事に自信がなく、相手に嫌われたらを心配する。まして相手のプライバシーは突っ込めない、も前提にあるのだろう。実際の相手の顔を浮かべて考え直してみよう。

「上長に相応しい自分」づくりへの努力は素晴らしいことだ。しかし世の中「努力すれば報われる」わけではない。報われる可能性が高くなるだけだ。スポーツの世界でも、その可能性を高めようと必死に練習するが成果は出ない。当然周りも必死に練習するので、競合との差は縮まらない。ここまでやれば、の判断基準がないから比べようがない。

先のオリンピックで名を挙げた柔道の井上康生監督は、100キロ級で世界TOPの名選手でもある。東海大時代、井上先輩の面倒をみていた後輩という知人が、息子と私に語ったことがある。試合形式の乱取り練習を1本5分を10本もやるとヘロヘロになる。全力疾走を50分続けるようなもので、元立ち以外は順番に当たるので、その間は休めるものだ。

井上先輩は、元立ちで休まず50本連続でやるのだそうだ。当然終わったあとは身動きできない。死んだようになった井上先輩を、2人の後輩が両脇から身体を抱えて宿舎に戻す。自力で風呂にも入れず、後輩がシャワー室まで抱えて先輩の身体を洗うのだが、ある日、井上先輩が途切れ途切れの声で「すまんが、このまま小便してもいいか・・」「どうぞ」と言うと、なんと真っ赤な血尿が出てくる。

「世界を目指す必死の努力は俺には出来ない、と悟った瞬間でした」そして「田辺くん、世界を目指すとはそういうことだよ。その覚悟でやり続ける決意を持って欲しい」と息子に語った。しかし、その練習とて優勝を保証するものではない。

これだけやった「のに」「なぜ」勝てない。
相手にこれだけ指導してやった「のに」「なぜ」出来ない。

世の中は「のに」と「なぜ」のセット言葉が多すぎる。練習すれば、努力すれば達成すると思い込み、上手くいかなきゃ何故だと、自分の努力や指導力不足を他に転嫁する。それでは挫折と恨み節の繰り返しになるだけだ。

他責から自責に変えて、自分自身でやれることとして、まず心構えから見直すことだ。

柔道の練習をこれだけやった「のに」、この「のに」を捨てる。これは「私と柔道」の関係だから出て来るセリフ。「と」を「の」に変える。私「の」柔道、柔道の私、と改めるのに違和感はない筈だ。
私と会社、私と部下、私と上司、私と家族、などの対比関係から私の会社、会社の私、
上司の私、部下の私、家内の私、に変えると「何故?」も自分の何故になる。

幾ら教えても変わらないは「教えてやる」の発想。相手が「学びたい」へと変えられない己を恥じるのだ。「師の背中を見て育つ」は、弟子が師に魅了され学びたい一心で成り立つ。相手が「と」を「の」に変わるのは、まず自分自身から実践するしかないのだ。

2017・サラリーマン川柳に、「パパお風呂、入れじゃなくて 掃除しろ」という川柳が入選していたが、井上先生なみの努力で「私の女房・女房の私」を実践し与え続ければ、いつしか「私の夫・夫の私」に家内が変わる?も、期待せずに実践するんだな。






2017年5月2日火曜日

すがすがしい人になりたい。

すがすがしい人が貴重な時代


「清々しい」とは何だろう。一般的には爽快、さっぱり、気持ちのよいなどの気分を指すが、同時に人を指す場合も多い。この時期、巷に多く見られる新入社員などは、すがすがしい人となるのだが、果たしてどうだろうか。

先日、友人の会社の入社式で、今年の新入社員の決意表明の半数近くが「この会社と、社会人としても自分が務まるかが不安なんです」と堂々と社長に語ったらしい。
一体これは何だろうかと考えこんだ。社長曰く、嘘でも良いから「頑張ります」と言えないのか、とこぼしていたが、皆さんはどう思うだろう。

子ども時代、親にも先生にも叱られたことがない。学校では平等・公平が原則か、順位も付けられず、中・高で一気に偏差値の競争という枠の中で揉まれ悩む。学閥は影を潜めたとはいえ、将来を思うと「こんなはずじゃない」と現実とのギャップに自信をなくす。
今まで年長者、上下関係、先輩・後輩などの繋がりが無く、学生仲間との付き合いしかない。まして恋愛も面倒で不安なので避けてきた。

しかし、社会では異次元の年長者、先輩、上司、異性に直面するのだ。かくして、礼儀作法も知らず自己中心の若者は戸惑い、上司は憂慮する。お互い不満と言い訳が増え、心が折れると逃げる。学校では「人は優劣で判断でなく、それは個性」が合言葉だが、社会に出ればそれは通用しない。

「上司力」を身につける


最近「バックレる」新入社員が話題になっている。入社2日目に「この会社、何か違う」と思ったら、昼飯に行くといったまま「バックレて」帰ってしまった事例だ。
会社は大騒ぎだが、当の本人は会社の心配などお構いなしで、違うからいかないとの弁。せめて辞めます、ぐらい言えよとの話だが、笑い話では済まされぬ現象だ。

終身雇用の危機は、定年まで勤めて後は余生のコツ「滅私奉公」精神を終わらせた。
「己のスキルアップとキャリアプラン」を考え、よりよい転職を探す時代になってきたから、好条件転職のコツ「その仕事、私のためになりますか」精神が前に出る。

そんな時代、新人に「すがすがしさ」を求める前に、マネジメントする側が「上司力」を蓄え、マネジメントの在り方を変えて「すがすがしい上司」になるしかない。

部下に対しては「怒る」激情型でなく「叱る」の対策を付加した理論型だ。報告事項は、先ず結果を聞き、次の言葉を待つ。成功時での自慢なら「どこで褒めるか」を、失敗時の言い訳なら「何故?」を探る聞き方に「耳」変える。これが積極的傾聴と心得るべきだ。業績拡大と人材育成は両輪の輪であり、片輪が動かねばまっすぐには進まない。

周囲に嘆く前に、本人との面談を義務化して部下の本質を把握する事が先決。部下の能力の最大化を引き出すための業務コントロールをすることが、マネジメントであろう。
やはりマネジメントの本質は変わらないのだ。

「仕事に厳しく、人にやさしく」は、業務コントロールと、人心掌握のことである。
一昔前の叱咤激励と飲み会の強要ではない。我々はいつしか本来のマネジメントを忘れ、職階、職位、評価基準で逃げてきたかもしれない。実はマネジメントは面倒くさいのだ。

人との繋がりが苦でない「清々しい上司」の下に「すがすがいい社員」が育つのだ。